■概要
大野城は、金森長近が天正4年(1576)に越前一向衆の鎮圧の戦功によって旧朝倉景鏡の所領であった大野郡の3分の2を与えられて、最初は大野盆地西部にあった戌山城に入りましたが山城で交通の便も悪く城下町を形成するのにも狭いため新たに市内東北部にある小高い亀山に大野城を築城しました。普請の工事は、約4年かけて外郭を造りました。城と城下町は、完成しましたが長近は多忙を極め、天正14年(1586)に飛弾高山に転封となってからは、めまぐるしく城主が変わります。その後は、長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄と変わり、徳川時代には福井藩領となり、城代として土屋正明・忠次親子、小栗正勝が入り、寛永元年(1624)、松平直政が5万石で入り、その後、松平系が城主となりましたが、老中だった土井利勝の子の土井利房が入封してからは幕末まで土井家の城として存続します。
■私見
長近が築城した城の中では最も保存状態が良好な城です。典型的な初期織豊系の平山城というべき印象を受けます。また、大野盆地をすべて見渡せる立地は申し分ない。城の構成は軍事の中心としての山頂の本丸曲輪と政治の中心の亀山の麓の居館部の2つからの構成で、本丸曲輪の石垣は野面積みで積まれており天守以外の場所は後世に詰まれたものも結構あり、結構改変されており判別も難しいのですが近世城郭の醍醐味の石垣が残る近世平山城です。天守は連立式天守で江戸時代の土井時代の案永4年(1775)に天守閣が焼失してしまい現在のものは、浜松城を模して昭和43年(1968)に再建された鉄筋コンクリートの模擬天守です。現在の復元天守と延宝7年(1679)に作成された蓬左文庫にある絵図と比較すると随分と異なる印象だったのがわかります。長近時代の天守は連立式ながらも天守の最上部の高欄部分が存在しておらず、板葺きの屋根となっており御殿・寺院建築に近いものであり高山城の本丸屋形と酷似していたのがわかります。
■アクセス
越前大野城の所在地 国道158号線 JR越美北線越前大野駅~徒歩約10分
天守曲輪遠景
石垣と模擬天守
本丸石垣
大天守と小天守(天狗の間)
金森長近の正室の名を残す「お福が池」
模擬天守曲輪門
模擬天守のアップ
模擬天守のアップ
百間堀と石垣
大野城の移築門が伝わる光明寺
大野城居館部の発掘調査
大野城居館部の発掘調査
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