会津上杉討伐と田島の戦い
■概要
会津征伐は、慶長5年(1600)に徳川家康によって行なわれた会津の五大老120万石の大名、上杉景勝に対する軍事行動のことで、家康が会津に進軍中に、西国にて石田三成が挙兵したので関ヶ原の戦いの幕開けとなりました。田島の戦いは、金森軍が上杉討伐に従軍して本国、飛騨を留守にしている間、飛騨・美濃国境付近の田島村では、東軍の白川小原城主遠藤慶隆の兵と、西軍の八幡城主稲葉貞道の兵との戦いがありました。この地一帯が一大決戦場となり多数の戦死者を出しました。この戦いでの戦死者を、田島の人々はひどく悲しみ、「首塚」「胴塚」「足塚」として死者を葬ったと伝えられています。
■合戦と金森長近について
金森長近も徳川家康に従い会津攻に従軍。しかしながら飛騨編年史要にも「長近、家康の旗下に属し、東海道を上り、可重は、飛騨へ還る可き旨命ぜられる」と記載されているように、美濃においては、諸勢力が石田方(西軍)に組しましたが、元郡上の領主、遠藤慶隆が家康方(東軍)として孤軍奮闘して援軍を家康に求めたため、家康は慶隆の尽力を金森可重に命じたため、金森軍は、軍勢を2つに別けて可重軍は、飛騨に帰還しました。可重は、家康から「濃州とのこと、成り行き次第にしっかりと御才覚ありたし」と伝えられて美濃における裁量をまかされています。