鳶ケ巣山砦奇襲戦
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鳶ケ巣山砦奇襲戦

■概要
天正3年(1575)武田勝頼は、東三河に侵攻して奥平信昌が守る長篠城を囲みました。勝頼は、長篠城を包囲するように、鳶ケ巣、久間山、中山、姥ケ懐の5つの城砦を築き持久戦の構えをとりました。対する織田・徳川連合軍は、後詰のため長篠に出兵して、両軍は設楽原で対峙して、膠着しましたが、軍議で徳川四天王の酒井忠次が、武田軍の補給・物資の基地であった「鳶ケ巣山砦」の奇襲を提案して、信長は、酒井に命じて奇襲をさせました。金森長近も鉄砲隊500を率いて奇襲隊に加わり、大野川南方から迂回して酒井・金森は鳶ケ巣山砦を攻撃して砦を守っていた武田信実と激戦を繰りひろげ武田方は壊滅して武田の五砦は次々と陥落して長篠城の包囲網は崩壊して長篠城の篭城舞台と合流して長篠城の後詰に見事に成功しました。

■合戦と金森長近について
金森長近も信長に命じられて鳶ケ巣山砦奇襲部隊に加わりましたが、長近の役目は、酒井がヘマしないように軍艦の役割で徳川主体の部隊の中で「信長の目」となったわけです。また鉄砲の数が少ない徳川方の補充のために鉄砲隊だったのも興味深い。「大野郡史」には「長近、三州長篠軍に従う。信長、長近の功を賞し刀を賜う。長近の援兵、長近を大将に命ず。」と書かれているように戦後、信長さまからお褒めの言葉を賜り刀を貰ったようです。私も地元の有志の方々が行っている「松山峠を守る会」の鳶ケ巣山砦奇襲部隊のルートを実際に歩いてみましたが、なかなかに険しく道も狭く、大軍が移動できるような道ではありませんでした。雨の日に甲冑と鉄砲を持って夜間に峠を越えたので昔の人は凄いと実感しました。




酒井・金森軍が通った松山峠の入口

実際の鳶が巣山砦までの峠道を歩きます。

中継地点にある鳶が巣山砦奇襲の碑

鳶が巣山砦


鳶が巣山砦にある供養碑

鳶が巣山砦から見た長篠城

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