甲斐武田攻め
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甲斐武田攻め

■概要
織田軍の武田本領侵攻は、天正10年(1582)の木曽義昌の武田離反が原因で、信長は、嫡男の織田信忠を総大将に、一気に信州に進撃しました。武田攻めは、伊那口から織田信忠、飛騨口からは金森長近、駿河口からは徳川家康、関東口からは北条氏政と総勢10万もの大物量作戦です。武田方は、なすすべもなく離反者が増えつづけ、武田軍は、信州においては、高遠城の仁科盛信の篭城戦以外は、目新しい抵抗もなく、本領、甲斐においては、居城の新府城を捨てて武田勝頼は、最後に頼った小山田信茂の裏切りにあい田野にて自刃してここに、名門、武田氏は滅亡しました。

■合戦と金森長近について
金森長近は、飛騨口からの総大将の役目を信長から賜り、越前大野から出陣して独立部隊で信州に攻め入っています。残念なことに、金森長近の武田侵攻は、記録に乏しくどのような進軍ルートを通ったのか、どう戦ったのか、一切不明です。しかも飛騨は当時、三木氏の領地で越前から素通りで信濃に攻め入ったことになります。信長公記にある長近が通ったのが「飛騨口」というのはどの峠を指しているのか不明ですが、単独で安房峠を越えて松本に入るのは無理があるので、高遠城攻略の際に織田信忠本隊と合流したと思います。金森長近は、別働隊の総大将なので、動員兵は、おそらく与力の原長頼・遠藤慶隆などを含めて1500~3000人くらいだったと思われますが、長近が信州でどのように戦ったのか記録は、ありませんが、興味深い。




初戦の激戦地、岩村城

最も武田方が抵抗した仁科盛信が護る高遠城

武田勝頼が築いた新府城

景徳院て眠る武田勝頼・北条夫人、嫡男信勝の墓所

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