賤ケ岳の戦い
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賤ケ岳の戦い

■概要
織田信長、亡き後の天下人の後継者争いともいえる戦いです。天正11年(1583)に羽柴秀吉と柴田勝家が、長浜市木之本町賤ケ岳付近で織田勢力を二分した戦いです。柴田勝家は越前衆を従えて北国街道を進み約3万。対する羽柴秀吉は、長浜城を落として約5万で布陣して戦線は膠着して長期戦となりました。美濃岐阜にて織田信孝が挙兵すると秀吉は、美濃に向かい、手薄になった秀吉方の城砦を攻撃する作戦を佐久間盛政が進言して実施。佐久間盛政の突出を期に、秀吉が美濃返しにより短期間で賤ケ岳に戻り乱戦となり、兵力が分散した柴田勢は敗走して柴田勝家は、北の庄城も落城して羽柴秀吉が天下人を決定つけることとなった戦いです。

■合戦と金森長近について
金森長近にとっては判断が難しい戦いでしたが、見事に乗り切っています。当初、長近は、当然、柴田勝家の傘下として徳山秀則とともに橡谷山(とったにやま)に布陣しますが、戦闘時には、前田利家、不破勝光とともに、佐久間盛政の軍が壊滅寸前の時に、急に戦線を離脱してしまい柴田勝家の敗北の直接の原因を作ってしまいます。なぜ金森長近が、戦線を離脱したのかは不明ですが、金森、前田、不破の3名は、賤ケ岳の戦いの前年、一時的に、柴田勝家の命をうけてに秀吉のいる摂津宝寺城に和議の為に赴いています。その時に、秀吉に内通の確約もしくは、丸め込まれた可能性が高いです。戦後、越前衆の各武将は、所領は没収されていますが秀吉の友人だった前田利家と金森長近は所領を安堵されています。


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