関ヶ原の戦い(小山~赤坂)
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関ヶ原の戦い(小山~赤坂)

■概要
石田三成が挙兵したのを知った徳川家康は、小山評定にて家康を豊臣家の名代として上杉景勝を討伐する予定だった諸大名連合軍が、小山での軍議で軍を西に返し、石田らの軍と対決することを決定して西に進軍。先行して福島正則・池田輝政らが、西軍方となった織田秀信が守備する岐阜城を攻めて落城。石田三成は、大垣城に篭城しており、徳川家康は、美濃大垣の赤坂の岡山に本陣を置き軍勢を整えました。金森軍も金森長近は、徳川家康本隊に従軍、金森可重は、美濃において郡上八幡城を攻めており、可重は、降伏して剃髪した郡上八幡城主、稲葉貞道を連れてこの美濃赤坂で合流しました。

■合戦と金森長近について
金森軍も金森長近は、徳川家康本隊に従軍、金森可重は、美濃において郡上八幡城を攻めており、可重は、降伏して剃髪した郡上八幡城主、稲葉貞道を連れてこの美濃赤坂で合流しました。『関原合戦図志』によると、金森長近は、「黒田ノ陣ノ後ロニアリ地形愈々高シ」 記載されており、黒田長政の上、西花ヶ丘の上に布陣したとされています。関ヶ原合戦後、家康率いる東軍が大勝利した後、岡山は「勝山」と称されるようになりました。


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