野田・福島の戦い
■概要
野田・福島の戦いは、元亀元年(1570)三好三人衆(三好長逸・三好政康・ 岩成友通)が動き出し、摂津に進出したとの知らせが、将軍、足利義昭から岐阜の信長のもとに入りました。信長は、岐阜を立ち京都に到着して京都の守りを固めて河内へ行き、摂津に進軍。三好三人衆に籠る野田城・福島城の2つの城に攻撃をかけます。この2つの城は、当時多くの河川に囲まれた要害の州で織田軍は、最初は誘降戦術でしたが、やがて力攻めとなり多数鉄砲を使用した乱戦となりました。やがて背後を突くように浅井・朝倉勢が挙兵して延暦寺付近に布陣。危機を感じた信長は、野田・福島両城の攻城を止めて京都に帰陣しました。
■合戦と金森長近について
金森長近も「摂州野田福島の軍に従い、前田利家と共に殿戦して功有り。(飛騨編年史要)」と記載されているよう、織田軍が京都に撤退する際に、殿(しんがり)をして活躍したようです。現在の古戦場付近は、完全に宅地化して遺構はなく野田城の城址碑のみあります。
野田城跡付近にある極楽寺
野田城址碑
石山本願寺跡、蓮如上人袈裟懸けの松
戻る