岸和田城守備戦
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岸和田城守備戦

■概要
徳川と豊臣は、大坂冬の陣にて和議を結びましたが、元和元年(1615)大坂夏の陣がおこり戦いが再開されました。戦国時代の最後の戦いで掘を埋められた大坂城は、無力に等しく総攻撃により大坂城は落城して豊臣家は滅亡します。大坂夏の陣においては、金森可重は大坂城の囲みには参加せず小出大和守吉英の岸和田城の守備を命じられました。小出・金森軍は岸和田城を守備していましたが、豊臣方の大野治房と和歌山城主浅野長晟は、樫井村付近で激突しましたが統率のとれた浅野軍が完勝しました。

■合戦と金森可重について
金森可重は偶然にも大坂の本陣に向う途中に大野治房の敗残兵と遭遇して八人生け捕り、208の首級をあげ献上したことになります。「金森文三郎書上」には「岸和田ヨリ罷帰候道ニ大野主目治房、敗北之人数ニ出会、於ニ樫井村 生捕八人・首二百八級討取、献レ之申候」と書かれていますが、命からがらの敗走中の敵を追い回して敵を討取った行為なので楽な戦いだったこと思います。またその他にも岸和田城付近で戦闘があったようで「普牒余録」には「於ニ其表首三十二被討捕、并生捕六人ニ被差越候。即披露申候処ニ御手柄之段、御感被思召候、恐々謹言」と書かれおり五月四日に岸和田で戦闘があり32人を討取り6人を生け捕ったようです。これに対して「徳川実紀」五月四日条では「小出信野守吉親・同大和守吉英・伊藤掃部助治明・金森出雲可重、岸和田の軍功御感の旨つたふ。」と一応、徳川からもそれなりに評価されたようです。しかしながら、岸和田城の小出氏とは懇意になり小出秀政の三男で陶器藩の三尹に金森可重の三女、菊を妻として金森宗和に茶道を学び宗和流を継承しました。


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