稲葉山城攻め
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稲葉山城攻め

■概要
永禄8年(1555)居城を小牧山城とした織田信長は数回にわたり美濃に侵攻するが失敗が続きました。しかし東美濃を制圧した永禄10年(1557)には、西美濃三人衆の稲葉良通・氏家直元・安藤守就が信長に寝返りました。これにより信長は孤立した稲葉山城に攻め入り瑞龍寺山から尾根づたいに城を攻め立てた。稲葉山城下町の井口を焼き討ちして斉藤龍興は、ついに城を捨て長良川を舟で下って落ち延びました。

■合戦と金森長近について
信長は、井口を「岐阜」と改め、城下を整備して天下布武を号令しました。長近に関しては、「飛騨編年史要」に永禄5年(1562)「長近、西濃所々の軍に従う。濃尾間一旦和成りたるも再び破れるなり」と永禄7年(1564)「長近、信長に従い濃州稲葉山城攻る。」と永禄10年(1567)「長近、美濃金華山の軍に従う」と3度の美濃攻めに参加しております。


稲葉山城攻めの際に木下藤吉郎が築いた逸話のある墨俣城

稲葉山城

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