郡上八幡城攻略戦
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郡上八幡城攻略戦

■概要
遠藤慶隆は、旧領地である郡上の奪還を切望して徳川方の東軍に属し娘婿の金森可重に依頼して両軍は、八幡城を攻めました。八幡城主稲葉貞道は、西軍に属し犬山城に出陣していて留守で八幡城は、貞道の次子道孝が守備していました。遠藤慶隆は、赤谷山愛宕に陣をはり、金森可重は小野滝山から搦手から迫り両軍合して二の丸に突入して激戦の末に城は落城寸前となりました。可重・慶隆は、城へ降伏勧告をして城を守備していた道孝は受託して両軍は一旦兵を退きました。一方、八幡城の急を知った稲葉貞道は、犬山を出て和議が成立して安心している遠藤慶隆の陣に夜襲をかけて八幡城に入城しました。慶隆は、吉田川を渡り命からがら可重の陣に逃げ込み、翌日、貞道は可重の元に和議を申し込みました。貞道は、城を明け渡し、剃髪して謹慎しました。その後、八幡城を東軍の城とした可重は、徳川家康の本隊のいる美濃赤坂へ向いました。

■合戦と金森長近について
この八幡城の戦いですが、関が原の戦いの前哨戦、遠藤慶隆の与力ですが、主戦力として参加してます。金森軍は、城の守備兵が少ないを侮り大変、雑な戦いをしかけています。勇将として名高い元小鷹利城主、牛丸親綱が一番槍の名誉を得るが戦死してしまい、その他、16
名戦死、負傷者50名余を出したようです。八幡城の搦手にある「首洗い井戸」は、討ち取られた金森家の家臣の首を洗ったものでしょう。八幡城の稲葉軍は、なかなか強く、稲葉貞道は、和議で安心している遠藤軍に夜襲をかけて剃髪して詫びをいれましたが、なんと戦後、臼杵5万石に加増転封となっています。


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