越前一向一揆戦
■概要
織田信長が宿敵、朝倉義景を滅ぼしましたが、一向宗は、朝倉家が滅んでも信長の支配を拒み、越前は一向宗によって支配された国となった状態でした。しかし一向宗が国を治めてみると、坊官と門徒の間で対立して、内紛がおき、天正3年(1575)信長は、内部の争いを利用して3万の兵を率いて越前の国に進軍して府中~一乗谷~豊原寺と軍を進め徹底的に一向宗門徒を虐殺しました。それによって越前の国の一向宗は鎮圧され、柴田、前田、佐々、不破、金森などに領地が分割され越前衆が誕生しました。
■合戦と金森長近について
「飛騨編年史要」には、「長近、越前の軍に従う。長近、原彦次郎と共に美濃国徳山谷より越前に入り、穴間大野の両城を攻め落とし、乱尋て平ぐ。」と書かれているように、別働隊として、原長頼とともに、美濃の徳山村を経由して越前の国に侵入して大野盆地を攻略しました。攻略の際に、長近は、越前高田派と本願寺派の対立を利用して高田派の「専福寺」「聖徳寺」「称名寺」の寺院を説得・懐柔して討伐隊に加えています。長近は、もともと寺院勢力の金森町で育ったため、こうした寺院勢力の懐柔は、お手の者だったと思われます。一揆鎮圧の功により、長近は大野郡の2/3を信長から賜ります。
一向衆によって殺害された土橋景鏡(朝倉)の居城だった亥山城
織田方だったため一向衆の乱入により兵火にあった白山平泉寺
当時は一大宗教都市だった白山平泉寺
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