■概要
織田信長の美濃侵攻において中濃平定作戦の一貫で、堂洞城の攻防に関しては「信長公記」の首巻にある「堂洞城の取出攻めらるるの事」に書かれています。永禄6年(1563)に織田信長の美濃侵攻に備えるため斉藤家の家臣連合は関城の長井道利を盟主として、堂洞城の岸信周(きしのぶちか)、加治田城の佐藤忠能(さとうただよし)の3家は反信長の盟約を結び信長の侵攻に備えました。織田軍は、伊木山城を本陣として大沢氏の鵜沼城を降し、猿啄城を落城させ堂洞城に迫ります。しかし堂洞城の隣接する加治田城の佐藤忠能は信長に寝返えってしまい、堂洞城の岸信周は、盟約との斉藤家への義を重んじ徹底抗戦して信長軍と戦い城は、落城して一族玉砕してしまいます。
■合戦と金森長近について
主「飛騨編年史要」にも「長近、美濃加茂軍に従う。信長、長近をして堂洞城主岸勘解由を説き勧降せしむ。勘解由聴かず。信長之を攻殺す。」と記載されているように織田信長は、岸信周の武勇を惜しみ、金森長近を降伏の説得の使者として堂洞城に赴かせます。しかし岸信周の決意が固いことを悟った長近は、説得を諦めて鵜沼城に帰還しました。岸信周は、長近の親族、佐藤秀方と遠縁のようなので、多少の面識があったのかもしれません。また城に赴いたということは、敵情視察も兼ねているので、記録にはありませんが、勿論、城攻めにも参加したと思われます。堂洞城の本丸にて金森長近が降伏勧告に訪れたと想像すると感慨深いものがありました。堂洞城については、砦や臨時築城の陣城のような城でした。
中濃攻略戦の前線基地となった伊木山城
最初に落城した猿啄城
堂洞城の遠景
堂洞城の主郭への道
堂洞城の主郭にある供養塚
織田方に寝返った隣接する佐藤忠能の居城、加治田城の石垣
加治田城の主郭。寝返った佐藤忠能の娘を岸信周は磔の刑にしました。
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