越前朝倉攻め(金ヶ崎の退き口)
■概要
足利義昭を擁立した織田信長は、朝倉義景に上洛を要請、しかしながら義景は拒絶し、朝倉討伐の大儀名文を得た信長は、永禄13年(1570)朝倉討伐のため越前に進軍。 越前へ侵入して手筒山を難なく落とし金ヶ崎城を包囲した。しかし、ここで思いもかけない信長の妹を妻とし味方であるはずの浅井長政が、義景救援の軍をおこしたのである。不意を食らった信長は直ちに金ヶ崎を撤退し、近江の朽木氏を頼って朽木谷を越えてほうほうの体で京都に逃げ帰りました。
■合戦と金森長近について
これを後世、金ヶ崎退き口として知られています。 金森長近も織田軍の朝倉攻めに従軍しています。「飛騨編年史要」によると「長近、越前手筒山の軍に従う」と記載されており、手筒山とは、本城の金ヶ崎城の出城で手筒山城攻めに参加しているようです。手筒山城は、織田軍の猛攻で落城。高所の手筒山城を攻めると尾根づたいに金ヶ崎城を攻略しやすくなります。
金ヶ崎城址
金ヶ崎城二の木戸
金森長近も攻めた手筒山城
手筒山城から見た金ヶ崎城
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