浅井・朝倉滅亡戦
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浅井・朝倉滅亡戦

■概要
武田信玄が病没すると信長包囲網が、崩壊したため、信長は、元亀4年(1573)足利義昭は、京都より追放、室町幕府は、滅び、天正元年(1573)浅井・朝倉の討伐に全力をそそくことができるようになりました。信長は、完成した虎御前山砦を本陣に3万の兵をもって小谷城を攻撃、後詰の朝倉軍が撤退していくのを見逃さず追撃、刀根坂の戦いで朝倉軍を打ち破り、勢いに乗って越前に侵攻して一乗谷を焼き払い、朝倉義景は、大野に落ち延びますが、朝倉景鏡の裏切りにあい自刃して朝倉家は、滅亡しました。その後、再び、小谷城を囲み、羽柴秀吉の軍が清水谷から小谷城京極丸を陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功して浅井長政は自刃して浅井氏も滅亡しました。これにより織田の版図は、湖北、越前、若狭にまで勢力が拡大されました。

■合戦と金森長近について
金森長近は、具体的な戦功はありませんが、飛騨編年史要に、天正元年(1573)「長近、越前、府中の軍に従う。」「長近、江州、虎御前山の軍に従う。」と記載されているように、ほぼ織田軍の全軍の作戦行動なので当然、従軍しています




朝倉氏本拠、一乗谷

大野にある朝倉義景の墓

浅井氏の居城、小谷城

浅井長政自刃の地

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