荒木村重討伐戦
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荒木村重討伐戦

■概要
天正6年(1578)荒木村重が、毛利家・石山本願寺を頼って突然、織田信長に反旗を翻しました。織田軍は、荒木方の高山右近・中川清秀を味方に引き入れて、村重が篭城する有岡城を取り囲みましたが、総構を持つ有岡城は、要害で9ヶ月もの膠着状態でしたが、長期間の囲みが効果を出始めて、天正7年(1579)に荒木村重は、わすがな供のみで城を脱出して尼崎城に逃亡し、有岡城は、落城寸前に追い込み開城しました。その後、荒木一族122名は、信長の命により、苛烈な処断を受けて京都の四條河原にて磔の刑に処されました。

■合戦と金森長近について
荒木村重が、なぜ謀反を起こしたかは、諸説ありますが、謀反の際には、多方面に拡散する織田軍の中で、はるばる金森長近を始めとする不破光治・前田利家・佐々成政・原長頼の5名の越前衆も動員されています。「飛騨編年史要」には、天正6年(1578)、11月14日、長近、摂州茨木の城に従う。11月18日、長近、原彦次郎と総持寺へ入る。12月8日、長近、摂州伊丹城の軍に従う。と有岡城を囲んでおり、「信長公記」には、天正7年(1579)信長が古池田(池田城)に陣をとり、諸卒は、伊丹四方に陣をとった。金森らも之に参陣した。と記載されています。また京都の四條河原にて荒木一族の処刑の命令を賜ったのも越前衆で、金森長近も処刑の監督をしており処刑に立ち会っています。


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