金森頼錦(かなもりよりかね)
■金森家最後の七代目藩主
金森頼錦は家督を継ぐはずだった可廣が早世したため急遽家督を継ぐこととなり23歳に郡上の藩主となりました。官位は従五位下若狭守で頼錦は学問に優れて文化人で芸ごとに秀でた典型的な金森家の藩主でした。とくに天文学に熱心で詩歌などにも熱心で郡上の昔の領主だった東氏を敬愛していました。頼錦は延享4年(1747)に幕府の奏者役に任命されました。奏者役は大名の将軍の謁見の手助けや献上物の披露や伝達をする役目で出費の多い役職でさらに、江戸芝の藩邸の普請で費用的にかなり無理をしたため財政は苦しくなっていきました。財政を補うため年貢の取り立てを領民の反対を押し切り、検見取にして強行したため、「宝暦郡上一揆」が勃発して幕府は宝暦8年(1758)に金森氏を改易として金森家は一族四散してしまい頼錦は南部藩に身柄を預けられ盛岡にて亡くなっています。
■宝暦郡上一揆
金森長近から続いた金森家は、終焉を迎えます。宝暦郡上一揆に関しては、農民対しての認識が甘かったと言わざるえないし農民の訴えを聞いたふりをして首謀者を処罰してしまうなど、人間としての節度と人情と誠意が欠けていたと思います。