牛丸親綱(うしまるちかつな)
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牛丸親綱(うしまるちかつな)

■人物
金森家の中でも逸話の多く波乱万丈の人生を過ごした牛丸又衛門親綱は、飛騨市河合町周辺を治める牛丸氏の嫡男として生まれました。天正12年(1584)当初、同盟関係だった三木自綱・広瀬宗域に本城の小鷹利城が不意打をうけて命からがら、越中に落ち延び佐々成政を頼りますが、追い払われ、越前の金森長近の元に再起をはかり亡命します。天正13年(1585)の金森長近が飛騨を攻略する際には、先導隊として金森軍の先陣を勤めて小鷹利城を奪還して目覚しく抜群の戦功をあげて豊臣秀吉から直接、三千石を賜りました。その後、金森長近の配下として各地で戦い、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる「郡上八幡城の攻防」の際には、八幡城に一番乗りの戦功を得るも鉄砲の的となり討死しています。

私見
まさに戦う人です。飛騨攻略の際には、広瀬城に篭城する三木自綱に降伏勧告の使者に訪れましたが、自綱が面会しなかったため、怒った牛丸親綱は、三木方の連絡役の家臣を切り殺し、松明に首を突き刺して、帰る様を見て敵兵は慌てて驚き、親綱は、堂々と帰陣したという逸話があります。また天正10年(1582)飛騨の覇権をかけた江馬輝盛と三木自綱の八日町橋の戦いでは、牛丸親正という青年武士が江馬輝盛を強襲して討取りましたが、年齢的にも親正とは、牛丸親綱のことと思われます。もし江馬輝盛を討取ったというなら蒼々たる戦歴の持主です。

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