金森左京近供(かなもりさきょうちかとも)
■人物
金森左京近供は、4代目藩主、金森頼直の次男として慶安3年(1653)に産まれ、分家で旗本、高原郷3千石の金森左京家の家督を相続しました。5代目藩主、頼業が早去すると6代目藩主、頼時が二歳の幼児ということもあって近供が相続人となって金森家中を束ねて実権を握り政務を取り仕切りました。岡本守彦著「飛騨史考」によれば、政治力・行動力に富んだ人物だったようで越中前田藩との国境争いの「飛越国境論訴訟」を金森家の勝訴に導いた所でも並々ならぬ政治力の持ち主と想像できます。延宝4年、高山城の石垣修理、大村内上野用水工事、舟津町大橋架橋工事、寛文13年の国分寺宝塔の再建、不良事業の片野金山の閉鎖、桐生川原堤築造工事など積極的に内政を行なっています。享保16年(1732)81歳の長寿で没。
私見
6代目藩主、頼時が成人するまで、実兄である5代目藩主、金森頼業の行政を継続して実に10年以上の長きに渡って金森家の実権を握っています。立場的には、家老の人物との確執もあり家中を束ねるのが大変だった思います。優れた内政力を持つ逸材と思いますが、閉鎖的な飛騨では、そういった人物は、必ずしも評判が良かったわけではないようです。
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