金森宗和(かなもりそうわ)
■金森家の集大成の茶人
金森宗和は天正12年(1584)2代可重の長男として生まれました。天正13年(1585)父可重とともに飛騨入りして、高山で生活していたと思われます。幼いころから茶人として高名だった父や祖父の影響を受け茶人として栄進するに優れた環境で育ちました。宗和は本来、嫡男であり金森氏の3代目となるはずの人物でありましたが、大阪の陣の年に排斥されて同じく父、可重と離婚した母(室町殿)ともない京都へ行き大徳寺を拠点として茶の道を学んでいきました。宗和の始めた茶道は武家茶人らしく厳粛で気品もあり、宮中の公家などにの評判もよくやがて宮中の出入りなども許されて「姫宗和」と呼ばれていました。その後、茶室や造園においても才能をいかんなく発揮して地位と名声を不動のものとしていきます。宗和は、終生、京都で活動を続けて母の室町殿の死後、5年後、明暦2年(1656)72歳の生涯を終えます。
■現代においても評価が高い美的センス
風流人が多かった金森一族の中でも特に異才を放ち金森氏のなかで最も名が知れている人物です。金森家当主排斥に理由は、大坂の陣の参戦拒否など諸説あり定かではありませんが、私個人的な意見では、母親思いのやさしい宗和と夫婦仲が冷めて離婚させた父可重への反発、不仲が現実的ではないかと思います。千利休亡き後、頂点を極めた茶人の中の一人であることには疑いなく、現代においても宗和のデザインしたものは色焦ることなく新鮮です。