金森重頼(かなもりしげより)
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金森重頼(かなもりしげより)

■宗和を廃嫡して藩主となった三代目
金森重頼は、可重の三男で母は、側室の名護屋高久の娘で慶長元年(1596)に生まれました。幼名は佐兵衛といい、徳川家康の近侍として幼少の時に人質同然で駿府に行きました。大坂の陣が初陣で家康の本陣で付き添って戦いました。大坂の陣の後に金森可重が58歳で急死してしまい嫡男だった金森重近は、勘当させられており順当にいけば家督を相続するのは次男の重次ですが、重頼が家督を継ぐことになります。この頃は祖父の長近と父可重の内政の努力が実り始めた頃で、経済的にも充実し始めた時期でした。金銀の産出も順当で事実上、高山藩は10万石の普請に対応できる経済力をつけていました。また城下町の整備も完成し高山の町も高山城も完成し好条件でのスタートでした。そのため治世も安定していました。慶安3年(1650)に江戸桜田邸にて55歳の生涯を閉じました。

■金森家最盛期の藩主
重頼が名君だったか、ただラッキーだった人物かは、論議定まらないところですが、名君と呼ばれる由縁は寛永18年(1641)に飢饉で餓死者が多かったので領民を救うために金森家の天下の茶器「雲山肩衝」を京極高廣に売却して米に代えて領民に与えました。この逸話が重頼を名君たらしめています。また重頼時代には、高山には加藤清正の孫で肥後73万石の大名、加藤忠廣の嫡男の光正と徳川家康の実子の松平忠輝、越後高田60万石の大名が流されて高山で蟄居して重頼が預かって監守しました。とくに松平忠輝は家康の実子であり気苦労は並大抵ではなかったでしょう。重頼は戦国期最後に誕生した人物で長近・可重・重頼はそれなりに活力がありましたが、それ以降の藩主は文化系が多く活力に欠け次第に金森家の家運が傾き始めます。


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