山蔵宗次(さんぞうむねつぐ)
■人物
山蔵縫殿助宗次が家臣の中でも知られるようになったのは金森家の飛騨侵攻時の松倉城攻防戦の時の三木方の武将、畑安高との一騎打ちの功名からです。松倉城の攻防で三木軍の中から新田義貞の家臣、畑時能の子孫と伝えられる畑安高という黒い鎧で包まれた背の高い大男が姿を現し金森可重の陣に「吾と思わん者は出て勝負に及ばれよ」と一騎打ちの申し出を金森の陣に挑戦してきました。しかし畑の容姿に恐れをなしてか誰も挑戦を受ける者はでてきませんでした。さすがに古風ながらも挑戦を断るのは恥と思ってか可重は家臣に「我が陣に男はおらんのか。彼とて鬼神にあらず、吾と思わん者は臆さず戦え。」と家臣を叱責すると可重の陣中から山蔵縫殿助宗次という若い武士が現われ、畑に一騎打ちを受け前に進み出ました。畑と山蔵は馬上で斬り合いになり勝利の軍神は山蔵の加護を与え、すばやく組み伏せ畑の首を打ち落としました。その後、山蔵は三百石で侍所頭までに昇格していきます。山蔵はその後、可重の指揮下で各地で転戦し続け元和元年(1615)に金森可重が亡くなると山蔵も主君の後を追うように殉死してしまいます。
私見
高山の文右衛門坂の名の文右衛門とは山蔵の末裔で坂に面して山蔵家の屋敷があったようです。
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