金森左京重勝(かなもりさきょうしげかつ)
■人物
金森左京重勝は、金森可重の五男として生まれ母は江馬氏の血を引く女性とされています。可重は飛騨の北部を治めていた名家の江馬氏の存続を考え重勝には江馬氏の旧領高原郷三千石を知行として与え左京家と名乗らせ、金森氏の分家が誕生しました。重勝は兄であった三代目藩主、金森重頼とも仲がよかったようで参勤交代で不在の多かった兄に代わり藩政をよく補佐して名家老と呼ばれていました。また高山の町の南の守りを荷うために高山の町の江名子川沿い広大な屋敷を設けていました。重勝を祖とする金森左京家は、主家が改易となっても存続を許され旗本として取り立てられ石高同じ三千石にて越前白崎にて明治維新まで存続しました。
私見
東山寺院の宗猷寺は、菩提寺で「宗猷」とは重勝の法名から名付けられたものです。江馬氏との関係は、父、可重の飛騨の統治を江馬氏の名を利用して円満にすますためのパフオーマンスであったと思います。滅んだ一族の名籍を継いだり、一族の末裔を親族に向いいれて領地支配をするのは当時の大名がよく使う手法で重勝もそのような目的のために生まれた運命の人物とでもいえる人です。
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