酒井重澄(さかいしげずみ)
■人物
酒井重澄は慶長12年(1607に代ニ目藩主金森可重の六男として生まれました。初めの名は右衛門八、母は重頼と同じ名護屋氏女で、将軍になったばかり三代目将軍の徳川家光の近侍として働くようになりました。家光は重澄を大変気に入り、若くして下総国生実2万5千石を与え重宝しました。また「金森」の名から酒井家になるように命じられ、「酒井山城守重澄」と名乗るようになりました。しかし、将軍家光に昼も夜も仕える疲労かどうか定かではありませんが、病と称して奉公を辞しましたが病気休養中に、子供を4人生ませてしまい、それが家光が知れてしまい激怒した家光は重澄を勤務怠慢を理由に所領を没収して福山藩主水野勝成に身柄を預けさせました。重澄は己の境遇を恥じて食を絶って寛永19年(1642)に35歳の生涯を閉じました。
私見
当時、金森家一族の中では、出世頭ですが、後に老中にまで出世した春日局の子の掘田正盛と双璧をなすといわれるほど家光に愛されていました。また、どの酒井の養子になったか定かではありませんが、「飛騨史考」には酒井忠世の養子になったのではないかと書かれています。重澄は順当にいけば徳川幕府の中枢の人物となるべき可能性が高かった人物なので残念です。
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