石徹白長澄(いとしろながずみ)
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牛丸親綱(うしまるちかつな)

■人物
石徹白彦右衛門尉長澄は、名前から察するに郡上白鳥石徹白村の出身で現地の土豪もしくは宮士だったと推測されます。石徹白は白山信仰の神聖な地で長近の領していた大野とは隣接していて石徹白長澄は飛騨の情勢に気を配り三木氏によって飛騨を追われた浪士達を多数養っていました。三木自綱が豊臣秀吉の臣下になるのを拒んで佐々成政とともに兵をあげていることを、小牧・長久手の戦いの最中で尾張に布陣している長近に飛騨の情勢を詳しく伝えています。三木討伐後、長澄は照連寺の関係を円滑に進めるための寺社奉行というべき仕事をして高山に移った照連寺と金森家の橋渡し役をしています。その後は、金森家の下で働き、慶長元年(1596)伏見邸にて亡くなっています。

私見
金森長近の譜代の臣ではなく長近が大野を領して飛騨を攻略する前に家臣となった人物です。正確には豊臣秀吉から1千500石くらいの知行をじきじきに賜っているので独立した存在ともいえますが長近の指揮下で働いています。 また白川照連寺の門徒であった長澄は、飛騨において強力な勢力を誇る白川照連寺にも強力を要請して三木氏討伐に専念できたのは長澄の功績におけるのが大きいようです 。

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