■長近とともに戦国を生き抜いた二代目
金森可重の生まれは美濃の国、根尾「本巣市」の小領主、長屋氏の一族で、永禄元年(1558)に長屋喜蔵(ながやきぞう)として生まれました。織田信長が斉藤家を滅ぼし美濃を治めると、幼い喜蔵は織田へ人質にいきました。織田家で幼い喜蔵の面倒をみたのが金森長近で喜蔵にとって長近は武将としての教育を教える先生でもあり親でもあったと思われます。その後、長近に従軍して戦功を上げ武将として成長していきます。その後、本能寺の変で長近の嫡男、長則が討死して跡取りがいなくなった金森家の養子となりました。金森家の後取りとなった可重は長近とともに秀吉の天下統一の普請に奔走して戦功を重ねていきます。長近が飛騨を所領すると古川に入り増島城を築城して古川の町を建設しました。長近が隠居して美濃上有知に移ると高山城に移り長近在城中に未完だった高山城を完成させ城下町を整備していきました。慶長19年(1614)の大坂の陣で戦功がありましたが、同年に伏見にて58歳で卒去。
■長近以上の武家茶人
よく全国区の書物では、「よししげ」という読み方を優先させますが、飛騨では「ありしげ」が一般的です。金森可重の官位は、従五位下出雲守で金森家の多くの藩主は、出雲守を就任します。郡上の遠藤慶隆の娘を妻として茶道で有名な金森宗和の父で千利休亡き後の有数の茶人でした。徳川秀忠の茶道の師範にもなり徳川家の茶のイベントの勝手をまかされる程で秀忠の評判もよかった人物です。さすがに血縁ではなく実力で金森家の後継者に抜擢された人物だけあってなかなかの逸材です。ただ惜しむへきことは、大阪の陣の終了後、徳川家康より早く亡くなってしまったことです。もう少し長寿を保てたら、金森家はより安泰で広い所領を有していたかもしれません。尚、長近は都に滞在期間が長かったため、飛騨の統治や城下町の整備は可重が行い事実上の高山藩の藩祖といえます変わらず多忙を極めます。