篠脇城
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篠脇城

■所在地 岐阜県郡上市大和町牧 ■遺構 郭・堀・竪堀 ■城のタイプ 山城 ■築城者 東氏村
■概要
篠脇城(しのわき)は、下総国(千葉県)の名門・千葉氏一族の東胤行が、承久の乱(1221)の戦功によって、郡上郡山田庄を加領され、大和町剣に阿千葉城を築き、その後、3代、約90年間居城しましたが、4代目氏村の時には、篠脇城に移り11代常慶までの200年間、郡上を治めました。しかし城は、応仁2年(1468)、美濃の守護代、斎藤妙椿が急襲して城を奪われ、焼き払われました。しかし、この時東常縁が呼んだ和歌に妙椿は感銘して城を東氏に返却したとされます。また天文9年(1540)越前の朝倉氏が攻め込んできて、撃退したものの、城や居館は、損壊して新たに、東殿山城を築いて、廃城になったとされます。

■私見
全国的にも稀有な規模の貴重な放射線状畝状竪堀が残る貴重な城址です。この竪堀は、三十余条の竪堀があり、視覚的にも圧巻で、通称「臼の目堀」とも呼ばれています。また放射線状畝状竪堀は、飛騨の国でも尾崎城や広瀬城にあり、飛騨と郡上が同一の城郭思想をもっていたと思えます。しかしながら、個人的見解では、この放射線畝状竪掘の遺構は、東氏在城の時と時代が合わないような印象を受けます。東氏が赤谷山城に居城を移してから何者かによって改修されたと思っています。 また麓の東居館は、名勝東氏館跡庭園として指定をうけている史跡です。東氏は代々歌道に優れていましたが、中でも九代・東常縁は、高名な歌人で古今集研究の第一人者でした。連歌師・宗祇にその奥義を伝授したことで知られて「古今伝授の祖」と云われいます。現在の庭園を見ていると、山奥ですが、風流を備えてた文化人の居館だったことが伝わってきます。

■アクセス
アクセス 東海北陸道のぎふ大和インタ~国道156号線。目標物、古今伝授の里


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