■所在地 岐阜県郡上市八幡町島谷 ■遺構 石垣・郭・堀 ■城のタイプ 山城 ■築城者 東常慶
■概要
赤谷山城(あかたにやまじょう)は、別名、東殿山城(とうどのやまじょう)とも呼ばれ、天文10年(1541)東常慶によって築かれました。東氏は下総国千葉氏の庶流で篠脇城主でありましたが、天文9年と翌10年の二回に渡り越前の朝倉氏の侵攻を受けました。かろうじて撃退したものの大きな損害を受けたため赤谷山城を築いて居城を移したとされています。 永禄2年(1559)東氏の庶流でこのとき宗家を凌ぐほどの勢力を持っていた遠藤胤縁は、八朔の祝で赤谷山城を訪れていましたが、東常慶の嫡子、常尭によって謀殺されました。これによって報復として遠藤胤縁の嫡男、胤俊と胤縁の弟で刈安城主の遠藤盛数がともに赤谷山城を攻め、十日あまりの攻城戦のすえ落城した。城主の東常慶は討死(あるいは逃亡)、その嫡男常尭は城を脱して飛騨の内ケ島氏を頼って落ち、東氏は滅亡しました。城址の東側にある谷を地獄谷というのは、落城時に城内の人々が転落して地獄絵図の如くであったことからに由来します。
■私見
東殿山城という呼称は、廃城後呼ばれた名称なので赤谷山城が正しい呼び名かもしれませんが、東殿山城の方がかっこいい名称です。険しい岩山の断崖絶壁の山城で設置されている補助ロープがないと登り降りに難儀する険峻な山城です。しかしながら岩盤のためか一つ一つの曲輪は、削平も甘くて大変狭く寡兵で守備する山城です。また各曲輪の間が距離が離れており、兵の連携が難しく城の縄張りから見るとお粗末というか極めて特異な城といえます。赤谷山城の前の居城の篠脇城や阿千葉城の方が、縄張り的に洗練されており、篠脇城や阿千葉城は、後世に改修された可能性があると思います。主郭にある石垣は、見た時の感動は、ひときわで城内最大の見所です。この石垣は、主郭の盛土の強度維持の土留の目的のための遺構だと思います。
■アクセス
国道256号線~郡上市街へ。目印、郡上市市役所と愛宕公園。愛宕公園かの愛宕神社の後ろの山道から登ります。