郡上八幡城
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郡上八幡城

■概要
郡上八幡城は永禄2年(1559)遠藤盛数が標高350mの山頂に砦を築いことに始まり、郡上を治めていた同族の文人一族「東氏」を滅ぼし郡上の支配を確立してた時に遠藤氏の居城となった城です。遠藤慶隆の時、織田信孝に組したため豊臣秀吉に疎まれ美濃白川へ転封となり変わって武儀郡、郡上郡、4万石で入封した稲葉一鉄の嫡男、稲葉貞道によって拡張され現在の石垣の近世城郭となりました。その後、関ヶ原の戦いで東軍に属した遠藤慶隆は、再び郡上に返り咲き、寛文7年(1667)の遠藤常友の時代に幕府の許可を得て、城の大修築を行い「城主格」から「城主」へと改称が許可されています。その後、遠藤氏は断絶して井上・金森・青山の各氏19代の城主が310年間に居城として君臨し明治維新後も地方官庁として使用され続けました。 尚、 金森氏は6代目、金森頼時と7代目、頼錦が治めましたが、頼錦の時代に「宝暦郡上一揆」が起こり失政を咎められて断絶してこの城が金森氏最後の城となってしまいました。

■私見
個人的には郡上といえば、藩祖、遠藤慶隆が強い印象をうけ金森氏とも何かと因縁が深い城です。城の構成は、最初、八幡山山頂に、天守曲輪を置き、桜の丸・松の丸の曲輪があり、山麓に、二の丸の構成でしたが、太平の世となった江戸期、青山氏の時に山麓の二の丸を本丸として改めて御殿・政庁が置かれ江戸期は、ほとんど山麓に城の機能が移転してしまっています。現在山頂にある模凝天守と隅櫓は昭和8年に建てられた木造建築ですが、江戸期の絵図を見るとわかりますが、天守台は存在しましたが天守閣は存在しなかった城だったのがわかります。江戸期には、櫓などの施設も無くなって放置状態だった可能性が高いです。本丸となった麓には、御殿がありましたが、多門を巡らすような重層な櫓は存在せず、大手二の門が象徴的な建築物だったようです。

■アクセス
郡上八幡城の所在地  岐阜県郡上市八幡町柳町  東海北陸道、郡上八幡IC~国道156号線。駐車場は、山麓の一豊と千代の像がある場所と山頂の搦手に無料駐車場があります。山頂への道は道が狭く、冬期には通行が禁止されています。


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